円山町の歴史と変遷
ほんの三十年ほど前までは、
円山町には、30軒余の粋な料亭があり、
80人もの芸妓さんがいました。
打ち水された通りを歩けば、
どこからか三味線がきこえる。
そんな大人の色香が漂う花街でした。
円山町の歴史と変遷
ほんの三十年ほど前までは、
円山町には、30軒余の粋な料亭があり、
80人もの芸妓さんがいました。
打ち水された通りを歩けば、
どこからか三味線がきこえる。
そんな大人の色香が漂う花街でした。

この界隈が円山と呼ばれるようになったのは昭和に入ってからで、以前は鍋島藩の荒木氏の所有だったため、荒木山と呼ばれていました。
円山町は大正2年(1913)には、 芸妓置屋24戸、芸妓60名、待合茶屋13戸をもった1万5千坪が三業地(料理屋、待合、芸妓屋の許可地)として指定されました。
大正8年2月には、渋谷三業株式会社を創立して隆盛期に入ります。
大正10年には、さらに芸妓置屋137戸、芸妓402人、待合96軒、大震災直前には芸妓420名を数えるほどになります。
1980年ごろまで三業界のにぎわいは続きました。しかし時代の変遷とともに料亭の数も減っていきます。
往時は黒塀と見越しの松、塀の内側には柿の実が生り、三味線の音がどこかから聞こえ、正月には新年の挨拶に回る芸者衆をみることができる、なにかしっとりと落ち着いた雰囲気の街でした。